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函館2005.6.17-18(advanced version)
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これまでの旅行遍歴を踏まえた上で私が見た「Hakodate」について、写真を交えつつ書いてみたい。

ハリストス正教会について

函館ハリストス正教会の夜景 函館ハリストス正教会
函館ハリストス正教会の夜景(CASIO QV-3000EXにて撮影) 函館ハリストス正教会

私がこれを見てすぐさま連想したのは、当然、モスクワのウスペンスキー大聖堂である。外観を見れば窓や入口の上部のアーチが共通していることは一目瞭然であろう。私はここにロシアというよりもローマを見出す。ロシアの建築は古くは木造のものが多く、あまりアーチが発達していたとは思えないのだが、特に教会建築では次第にアーチやドームが多用されるようになっているように思われる。これに対して地中海沿岸地域では石造建築が多かったため、石を積み上げて建物を作るためのアーチ工法が発達した。地中海沿岸地域をローマ帝国が支配していた頃、アーチの技法がかなりの発展を遂げ、広範に広まっていった。「ローマ帝国」というといかにもイタリアの「長靴」が中心だったかのような錯覚に陥るが、ローマ帝国が続いた1500年ほどの歴史を見れば、その中心は圧倒的にコンスタンティノープル、現在のイスタンブルであったといえる。ローマ帝国で栄えた様々な文化遺産はいわゆるビザンティン帝国に継承された

(ちなみに、西ローマ帝国が100年ほど存続していた地域にはほとんど何も継承されなかった。西欧がギリシア・ローマの文化を「古典古代」と呼び、いわば「自らの文化的祖先」として位置づけているのは、かなりの程度、捏造されたものである。それは例えば、誰かが「日本の文化の源流がローマにある」と言ったら、たいていの人が「おいおい、そりゃ違うだろう」と言うだろうが、これと同じような感じなのである。)

ウスペンスキー大聖堂 イスタンブールの水道橋 アヤソフィア
ウスペンスキー大聖堂(外観) イスタンブルにあるヴァレンス水道橋(378年完成) アヤソフィア(イスタンブル)

なお、ローマでアーチが発展したということは、有名なローマ帝国の水道橋やコロッセオを見れば納得できるであろう。あれらの建造物はアーチのオンパレードである。ビザンティン帝国でもアーチの伝統は生きていた。例えば、コンスタンティノープル総主教座であった現在のアヤソフィアの巨大なペンデンティブ・ドームなどを見てもそれは一目瞭然である。(ドームはアーチの技術と密接な関係にある。アーチを一回転させるとドームになる。)つまり、こうしたアーチを多用するタイプの建築はローマの建築伝統の流れを引いているものが結構多いのである。(なお、ペルシャの建築もこれを継承しており、アーチなどの曲面架構技術に関してはペルシャ建築こそローマ建築の直接にして最大の継承者であると言えそうな気がする。)

では、ローマの文化がビザンティン帝国に引き継がれ発展してきたのだとすれば、それがどうしてロシアにあるのか?それは上記の下線部分で「教会建築」と述べたことが深くかかわっていると思っている。ロシアのキリスト教は主にロシア正教であり、これはいわゆるギリシア正教の系譜に属する。そして、ロシアはビザンティン帝国がオスマン朝に滅ぼされた際に、「第三のローマ」を名乗った。ロシアの皇帝がビザンティン帝国の皇族と結婚したことで後継者としての正当性を確保したということは知られているが、それだけでなく、こうした教会建築などの面にも、そうした「第三のローマ」であろうとしたロシアの支配層のスタンスが現れているのである。少なくとも、私は函館でこの教会を見たとき、真っ先に「ローマを継承しようとしていたロシアの姿」が、ロシアの辺境の地、hakodateにまで移されてきていると見た。

やや錯綜したので簡単にまとめる。「(1)アーチの技術がローマ帝国で発達→(2)ビザンティン帝国=東ローマ帝国がそのまま継承→(3)ロシアは東ローマの文化を取り入れてきた→(4)東ローマ帝国の滅亡によりその後継者を名乗るに至る→(5)ローマの文化がより積極的に取り入れられた」という図式になる。(3)の部分がポイント。

また、ハリストス正教会を見て「ロシア(正教)っぽい」と思ったのは、屋根の上に載せられた小さなドームである。これもウスペンスキー大聖堂の屋根に乗っている金色のドームとの類似性は明らかであろう。この手の装飾はロシアの教会建築ではかなり発展が見られ、見どころの一つであると言えるが、函館のハリストス正教会の場合はそれほど注目すべき点とは思えなかった。ちなみに、この小ドームに関してはモスクワの聖ワシリー聖堂や(比較的新しい建築だが)ペテルブルクのスパス・ナ・クラヴィー聖堂などが非常に美しい作例である。

聖ワシリー聖堂 スパス・ナ・クラヴィー聖堂 ウスペンスキー大聖堂(イコノスタシス)
聖ワシリー聖堂 スパス・ナ・クラヴィー聖堂 ウスペンスキー大聖堂(イコノスタシス)

また、ロシア正教会で欠かせないものはイコノスタシスである。函館ハリストス正教会では建物の内部は撮影禁止だったので、残念ながら撮影できなかったが、なかなか本格的なイコノスタシスがあった。とはいえ、本場のものを見てきた身としては、どうしても見劣りするのは避けられないが…。それから、教会自体もなかなか均整がとれた良い建築だと思うが、ヨーロッパなどの大聖堂を見ていると、やはりスケールが小さすぎて迫力不足と感じてしまう。なにせサイズ的に1/10程度しかないのだから、本物のガンダムとかなり大き目のガンプラを比べているみたいなものである。この迫力不足という点はカトリック元町教会にも当てはまることである。

カトリック元町教会について

この教会はゴシック様式にあたるとものの本には書いてある。現場の看板(?)にもそう書いてあった。しかし、私の観点から見ると「どこがゴシックやねん?」という感じで「???のオンパレード」であった。まず、正面のファサードを見るとゴシックというよりはバシリカ式の流れを汲むイタリア風のイメージが強い。何よりも決定的なのは建築の内部だが、まず、トリフォリウムがないことに驚いた!これがあるかどうかがゴシックかそうでないかということのかなり大きな指標になると思っていたので、ここで大いに疑問がわいた。(ゴシックの教会堂では普通、内部が三層構造になっているのが基本なのに、この教会はそうなっていなかった。三層のうち中段の飾り窓的なアーチの列をトリフォリウムという。)確かに内部はリブ・ヴォールト風の天井になっており、ゴシックっぽい雰囲気は出している。しかし、ゴシック建築の最高の見せ場のひとつである「高さの強調」もさほどでなく、また、後で外から見てもフライング・バットレスがない…。ということは、構造上、通常のゴシックの教会とはつくりが違う、ということを意味していると思われる。構造のことは詳しくはわからないが、フライングバットレスがないということは、内部のヴォールト風の天井は飾りであって、建物の構造上の重要性を持っていない可能性が高いのではないか。そうしたやり方をゴシックと呼ぶのかどうか、私としては大いに疑問を持った。少なくとも、教科書的な理解としてはこの建築をゴシックと呼ぶのは語弊があるように思われた。

カトリック元町教会 サント・スピリト教会 ノートルダム寺院(パリ)
カトリック元町教会 サント・スピリト教会(フィレンツェ)
様式は知らないが、元町教会はイタリアの様式と親近性がある。
ノートルダム寺院(パリ)
ゴシック様式。元町教会はこちらよりもサント・スピリトに近い感じ。
バルセロナのカテドラル スルタン・カラウーンのマドラサ複合体 元町教会
バルセロナのカテドラル
ゴシック建築のヴォールト(骨みたいな部分)天井について私が抱くイメージはこんな感じ。
スルタン・カラウーンのマドラサ複合体(カイロ) カトリック元町教会
函館はさすがに夜景の街だけあってか、ライトアップも高レベルである。

まぁ、そうした基準に合うかどうかは別とすれば、ここも思ったよりしっかりしていたという印象がある。というのは、アプシスのところにある祭壇が結構本格的なものだったし、イエスの生涯を書いた一連の絵もいかにも教会という感じだったからである。

もう一つ気がついたことは鐘楼(塔)についてである。これもゴシックというよりは地中海っぽい感じである。やはりイタリアから取ってきたというイメージがある。確かに、ゴシック様式というのはいわゆるヨーロッパと呼ばれる地域には広く広まった様式なのだが、イタリアではあまりそのまま受け入れられなかった感がある様式である。むしろ、アルプス以北の地域で開発され発展したスタイルであるといえる。しかし、この教会はかなりの程度、そのアルプス以北ではなく、アルプス以南の地中海の様式を受け継いでいるように見える。ファサードも然りだが、塔もそうである。

その辺がそうかというと、角塔をベースにしながら多角柱を上に載せ、さらに屋根の形を変えているあたりである。地中海世界ではこうした角柱をベースとしたスタイルの塔が沢山ある。例えば、カイロのスルタン・カラウーンのマドラサ複合体のミナレットなどもそうである。上に写真があるパリ、モスクワ、イスタンブルの塔と比較してみて欲しい。(イスタンブルは地中海にも一応面しているが、鉛筆型ミナレットは時代が下ってから東方のトュルク系の人々から伝わったもので、内陸で開発されたものが西に伝来したと考えられる。)

やや酷評してしまった感があるが、それは「看板と中身が違うじゃないか!」という点について言っているのであって、ここも観光に値するよい建築である。

その他

そのほか、今回の函館訪問は、明治初期に日本がヨーロッパをどのように受け入れたか、また、「ヨーロッパ列強」なるものがいかなるものだったのか、ということが、いろいろなところに出ているように思われて興味深かった。五島軒のカレーひとつとってみても、そうである。カレーは香辛料を用いるがそれはインドから来たものである。コーヒーが出るがそれもトルコ経由でアラビア半島から来たものである。紅茶も中国から来たものである。これらの地域はすべてイギリスが支配しようと目論み、直接または間接的に支配力を及ぼした地域であった。いずれも「ヨーロッパ」のものではないにもかかわらず、「洋食」として輸入されているように見えた。つまり、やや単純化して言い切ってしまえば、「ヨーロッパ」というのは当時、文化の中継点でしかなく、発信地は「アジア」であったということである。それにもかかわらず、それを受け入れる側であった日本はそれに相当の敬意を表しながら、「ヨーロッパ」のものとして受け取っていた様が見て取れたと思う。一見、些細なことだが、カレーを食べるのにフォークとナイフが出てくるあたりなどにそれを見て取ることも可能であろう。

また、観光地としてみた場合、坂と海(水)があるというのは相当に良い条件であるということを実感した。例えば、八幡坂などでそう思った。恥ずかしながら、私はこの坂のことを事前に知らなかったのだが、私がここを通ったとき、かなり「絵になる」ところだったので、思わず写真を撮っていたら、一緒に行った友人がここはよくドラマやCMの撮影で使われることなどを教えてくれた。そこで坂と海という要素に気づくことができた。そう思って考えてみると、函館山の夜景などもそうした条件の賜物であるとわかってきた。

私の住む小樽も一応それなりの観光地であり、その見どころは運河である。これは水という要素を持っている。小樽は坂の町でもあり、それによる起伏があるために、それなりに見晴らしがいいところもあったりする。街並みを見ても、平らなところよりは多少絵になる要素がある。似たような条件がイスタンブルにもあることに気づいた。ボスポラス海峡と起伏の激しい地形が織りなす景観。ドイツのハイデルベルクの「哲学者の道」もドイツを代表する景観の一つだが、山に沿って走る「哲学者の道」からは直下にネッカー川があり、その対岸に密集した街、そして古城を頂く山が連なっている。

八幡坂 哲学者の道(ハイデルベルク、ドイツ)
八幡坂 哲学者の道(ハイデルベルク、ドイツ)

そうしたところと比べると、ロンドンやパリまた札幌は(川辺や塔の上などを除けば)景観には乏しいという面はあるように思う。いずれにせよ、この着想は私にとっては、今後、いろいろなものを見ていく上で刺激を与えてくれるものである。例えば、水という要素はイスラーム世界での庭園文化とも密接に関わるテーマである。(スペインのアルハンブラ宮殿もおそらく上記の2つの条件を満たしている。あそこにも起伏のある地形と水があるはずである。)そして、自分の住む地域を(何がしか良くなるようにと)考える際にも、ちょとした手がかりを与えてくれるものでもある。

まだまだ語りつくせないが、このような感じで、今回の函館訪問はなかなか有益なものがあった。短時間で一気にまとめたので文章も推敲の余地がかなりあるが、ここに立ち止まり続けるわけにもいかないので、ここまでにしよう。



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