債務整理キャッシング
サファヴィー朝期以前のイランのイスラーム建築2
このページの一番下へ

ダワズダー・エマーム(12エマーム)の聖廟
1036年、ブワイフ朝、ヤズド

この建築はブワイフ朝時代(935-1055年)の新傾向を体現する現存モニュメントのうちで最も古いものとされる。

12エマームの聖廟
写真433 12エマームの聖廟(天井部)

12エマームの聖廟
写真437 12エマームの聖廟(外観)

12エマームの聖廟
写真432 12エマームの聖廟(移行部)

サーマーン廟
写真09220149 ブハラにあるサーマーン廟(移行部)

この建築は正方形プランの上にドームを据えるという古代以来の課題について、ほぼ完全に近い解決を示しているとされる(写真432写真433)。言われているとおり、正方形から八角形へと角をアーチ状にしてスクィンチを自然に見せることに成功している。A.U.ポープの『ペルシア建築』によれば、この解決が真に完璧なものとなるのはセルジューク朝時代のエスファハーン(マスジェデ・ジャーメ)においてであるという。

個人的にはブハラで見たサーマーン廟(イスマイール・サマニ廟)の移行部と似ていると思ったが、ブハラのものの方が洗練されているように思えた(写真09220149)。こうした形は何となく見ている限りでは「別にどうということもないのでは?」と思うかもしれないが、石やレンガを積んでドームを建物に載せるというプロセスを自分が(手作業で)やってみることをイメージしてみると、実はかなり高度な技術や知識の積み重ねがあって初めてできることだとわかる。


ゴンバデ・アラヴィヤーン
セルジューク朝、ハマダーン

ゴンバデ・アラヴィヤーン
写真741 ゴンバデ・アラヴィヤーン

ゴンバデ・アラヴィヤーン
写真742 外は幾何学的文様

ゴンバデ・アラヴィヤーン
写真758 内は蔓草文様など

今回の旅で見た建築の中で最も興味深かったものの一つ。セルジューク朝の支配者層(dynasty)であったアラヴィヤーン家の霊廟。当初はモスクとして建てられたものを改装して廟にしたという。

審美的な観点から見ると、特に内装のスタッコ装飾がすごい写真758)。これはイル・ハーン朝期に追加されたもの。蔓草文様があることに納得した。中国の方面からこうした文様はやってきた!ということが、こうしたことから推察された。そのほか、全体に装飾が立体的なのが特徴的だと思われた。

面白かったのは、外は幾何学的な星型の文様がベースになっているのに対して、中は蔓草文様など曲線的なデザインがベースになっていたこと(写真742写真758)。個人的にはこれらの作成年代は異なっているのではないかと推測しているのだが、いずれもイル・ハーン朝期に付加されたものだという。

構造面では、長い年月の間にはかなり改修が繰り返されてきたであろうことが見て取れた。それは以下のような点に表れている。かつてドームがかかっていたのではないかと思われるが、現在は崩落してしまったらしく、新しい平天井がかかっている(写真741)。また、ドームへの移行部だったと思われる天井付近の四隅を見ると、それぞれの角でブロックの積み方が異なっていた。さらに、ミフラーブのところから地下の墓のある部屋にいけるのだが、地下にも改修の後が多く見られた。新しいレンガと古いレンガがはっきりわかるようになっていた。他にもスタッコの装飾が随所で剥落しており、日干し煉瓦の壁が露出している箇所も随所にあった。


アレクサンダーの牢獄
13世紀、ヤズド

アレクサンダーの牢獄
写真415 アレクサンダーの牢獄(ドーム)

アレクサンダーの牢獄
写真419 アレクサンダーの牢獄(中庭からドームを臨む)

アレクサンダーの牢獄
写真424 アレクサンダーの牢獄(地下室の天井)
見事な装飾!

アレクサンダーの牢獄
写真426 アレクサンダーの牢獄(地下室の基部・移行部)

「アレクサンダーの牢獄」と『地球の歩き方'05-06』には書いてあるが、現地で見た看板によると、牢獄というよりもこの建物自体は学校であったらしい。ただ、壁の一部はアレクサンダー大王が牢獄として使っていたものだと伝えられており、それが「アレクサンダーの牢獄」とも呼ばれる理由のようだ。

ドームの部屋は基部が高いので、それがさらにドームの高さを感じさせる写真415)。中庭にはイーワーンが3つある(写真419)。チャハール・イーワーン形式の変形と考えてよいと思われる。中庭には地下室があり、これがとても涼しい。ヤズドは沙漠地帯の真ん中にあり、イランの中でもどちらかというと気候が厳しい地域。そうしたところだからこそこのような様々な知恵で乗り切っているように思えた。この地下室は天井のアーチネットが非常に見事写真424)。正直、ここにこんなすごいものがあるとは思っていなかったので驚いた。

旅の途中で振り返ってみて気づいたのだが、アレクサンダーの牢獄のドームの持ち上げ方(スクィンチ、写真415)はサファヴィー朝の様式(マスジェデ・エマームやシェイフ・ロトゥフォッラー)と(ほぼ?)同じパターンであると思う。



イラン旅行2005へ戻る
サファヴィー朝期以前のイランのイスラーム建築1(戻る)
サファヴィー朝期以前のイランのイスラーム建築3(次へ)
inserted by FC2 system