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フランス旅行2006写真集
第四集・芸術について
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10世紀以前の作品

アパダーナの大斗
写真4099 アパダーナの大斗

6体のスフィンクス
写真3982 6体のスフィンクス

アパダーナの大斗は紀元前510年頃のもの。スーサにダレイオス一世(アケメネス朝ペルシア)の宮殿のアパダーナ(謁見の間)にあった『牡牛の柱頭』。ルーヴルに行ってこの柱頭を目にした者は、立ち止まらずにはいられない。そんな圧倒的な存在感を持っている。私も初めて目にしたときはビックルを一気飲みした。今回は二回目だったので、もうちょっと冷静、というかその後、ペルセポリスのアパダーナなどにも行っているので、どんなところにこれがあったのかイメージしやすかった。

スフィンクスは見事に揃ってるので、思わず撮影してしまった。こちらは紀元前4または3世紀、プトレマイオス朝時代にサッカーラにあったものらしい。確かに、妙に写実的で整った造形はギリシア(ヘレニズム)の影響を感じる。こちらもルーヴル美術館所蔵。

ローマ帝国のマスク
写真5042 マスク(ローマ帝国)

ボウル(ラピデール)
写真5855 ボウル(1〜2世紀)   

ボウル
写真3995 ボウル(2世紀イタリア)

上記三点はいずれもローマ帝国領の作品。写真5042のマスクはこれだけ激しい表情のものが揃っているのが面白い。普通、美術館にあるローマ帝国時代の彫刻というと、やたらと写実的でそこに技巧のすべてを集中していますと言わんばかりのものが多いと思うが、こんなものも結構あったんだな、と再認識させられる。トゥールーズのサン・レイモン博物館所蔵。

右のボウルはそれぞれ1〜2世紀頃のもの。今回の旅行でちょっと興味を持ったものの一つにローマのガラスがある。今回の旅行では、いろいろな美術館・博物館に行ったけれども、展示されている「ローマのガラス」のほとんどすべてが1〜2世紀のもので、3〜4世紀になると急に数が減る。5世紀以降になると全くと言うほど見かけなくなる。紀元前のものもほとんどない。ちょうどこの頃、技術革新があったらしい。その後のガラスの技術は東地中海やイランの辺りで継承され、発展したのだろうと推測するが、ローマ帝国の作品もなかなか魅力的なものが多かった。そんなことで興味を持った次第。

上の濃い青のボウル(?)は、アヴィニョンのラピデール博物館所蔵のもので、恐らく、南仏にあったものだと思う。実物を見ても材質が何なのかすぐにはわからない不思議な輝きを放っていた。金属のようなガラスのような宝石(?)のような。それが気になって撮影しておいた一枚。

下の薄い青のボウルは、ルーヴル所蔵のもので、色がとても綺麗だったのが印象に残っている。この展示のすぐ隣には有名な「ミロのヴィーナス」の部屋があって、大混雑している中、隣のローマのガラスの展示室は「人が通過するだけ」に近い有様だったので、じっくり堪能できた。

ついでに、一言ルーヴルに苦言を呈しておく。2001年に訪問したとき、「ミロのヴィーナス」は普通にギリシャ・ローマの彫刻部門の廊下のど真ん中に置かれていた。狭い廊下だったので、人だかりになって廊下は確かに歩きにくかった。しかし、現在のように大きな部屋に置くと、見物人の数も半端じゃない。大きな部屋に置いたせいで、逆に見づらくなったと思う。「モナ・リザ」にも同じことが言える。

バウイト修道院の柱頭
写真3951 バウイト修道院の柱頭彫刻(6〜8世紀?)

バウイト修道院の柱頭
写真3954 バウイト修道院の柱頭彫刻(6〜8世紀?)

これらはルーヴルのコプト美術の展示の「バウイト(Baouit)修道院の部屋」にあったもの。フランス語はよくわからないので、はっきりと断言はできないが、どうやら6〜8世紀頃のものらしい。私としては、これらの柱頭彫刻を見ることができただけで、今回、ルーヴルに再訪した甲斐があったと本気で思った。かなり感動ものだった。こっちの方がロマネスクやゴシックよりずっとすごい!少なくとも私はそう思った。でも、部屋はガラガラで、私しか見てない、みたいな。あー、もったいない。


12〜16世紀の作品(と制作年代不明のもの)

宝箱(12世紀)
写真4106 宝箱
12世紀、ルーヴル美術館所蔵

ステンドグラス
写真3643 ステンドグラス
主に13〜15世紀、クリュニー博物館所蔵

クリュニー博物館では、展示されているものもさることながら、ステンドグラスの展示の仕方は素晴らしかった。フランスで私が訪れた美術館の多くは、大変展示の仕方がうまいものが多かった。個別に書くと長くなるので省略するが、こうやって間近で光の通ったステンドグラスを展示していることなども様々な工夫の一例としてあげておく。

聖母子
写真3678 聖母子
1407年、クリュニー博物館所蔵

聖母子
写真4112 聖母子
15世紀ドイツ、ルーヴル美術館所蔵

いずれもガラスケースに入っているので写真撮影は結構難しい。今回はそのあたりを少しだけ克服した。

聖母子
写真5006 聖母子
15世紀第2四半期(?)トゥールーズ、オーギュスタン美術館所蔵

ピエタ
写真5410 ピエタ
1476年、サン・ピエール教会所蔵

トゥールーズの作品は、この時代の聖母子の中では、独特の雰囲気や特色を感じさせる。ここでは子は本当の赤ん坊のようであり、聖母子にありがちな「威厳を示す生意気なガキ」とは全然違う雰囲気をかもし出している。アヴィニョンのプティ・パレ美術館で聖母子の図像を大量に見て感じたことだが、12〜16世紀あたりにかけて、時代と共に聖母子の図像は柔和な印象を強め、母は子を慈しむ表情を見せ、子は威厳を示さない赤子に近づく大まかな傾向があると思う。この作品もそうした流れに位置づけられそうな気がする。(地域や工房の違いなども絡んでくるので)この問題はそんなに簡単に割り切れるものではないだろうから、かなり大雑把に言えば、の話だが。

モワサックのピエタ(写真5410)は、四頭身というのが斬新に見えた。これは「ロマネスク訪問記録」に書いたので省略。

母と子(?)
写真3472 母と子(?)
16世紀初め、ピカルディー美術館所蔵

キリストの埋葬
写真3052 キリストの埋葬(?)
年代不明、サン・レミ聖堂所蔵

ピカルディー美術館の作品は、やたら生意気そうなガキの表情が良い味出している。右のサン・レミ聖堂南翼廊にあった彫刻は、いつの時代のものかはっきりとはわからないが、キリストの周囲の人物のほぼ全員が涙を流していることなどから、14世紀前半より前のものではないのはほぼ間違いない。マグダラのマリア(?)の大げさな嘆きようなどから推測すると14世紀という選択肢はちょっと違うのではないか。17世紀以降のバロックほど派手でもないし、法悦の表情なども見られない。となると、15〜16世紀のものではないかと推測している。たぶん15世紀だと思っている。

聖母マリア
写真2920 聖母マリア
年代不明、ランス大聖堂所蔵

聖母子
写真5688 聖母子(?)
年代不明、レアチュー美術館所蔵

ランスのマリア像の静かな祈りはすごいな、と。作品の年代とかより、そっちの方で惹かれた。右のレアチュー美術館(アルル)の中庭に半ば無造作に置かれていた像はマリアの表情が素晴らしい。まるで生きているかのようだ。


20世紀以降の作品

レアチュー美術館
写真5697
レアチュー美術館所蔵

聖母子
写真5962 ピカソの絵とアルルの闘牛の写真(?)
ヴァン・ゴッホ財団の特別展

左はレアチュー美術館の中庭を利用したアート。掃除のおばちゃんは、たまたまそこにいただけ。でも、うまい具合に円に接することで、新たな作品を生み出している、なんて思ったりして。右はアルルのヴァン・ゴッホ財団でやっていた特別展の展示の一つ。こうやって絵と写真を並べると、ピカソがいかにうまく闘技場にいる人たちの熱気を描いているかがわかる。この特別展の展示もこのように大変分かりやすく、素晴らしいものだった。

Light Sentence(1992)
写真6029 Light Sentence
1992、国立現代美術館所蔵

何もない白い部屋に裸電球一つとそれを三方から囲むように鳥かご(?)が配置されている。これがアートだ、と。

Light Sentence(1992)
写真6030 Light Sentence
1992、国立現代美術館所蔵

Light Sentence(1992)
写真6031 Light Sentence
1992、国立現代美術館所蔵

Light Sentence(1992)
写真6032 Light Sentence
1992、国立現代美術館所蔵

見るべきは、かごや電球じゃなく、床や壁に写る影。何かを考えるというより、光と影の具合や自分が動くことによるそれらの見え方を楽しむ。

こういうのを数限りなく見てきて思ったのは、20世紀のアートは「光、動き、音、映像」といったものが大きな役割を演じているということ。もちろん、このアートの場合は光。見ていると、なかなか楽しませてくれたり、気づかせてくれることはある。ただ、そうは言っても、アートがアートとして独立したものである限り、頽廃というか破壊的なものになってしまう傾向はあるように思う。

例えば、絵画は20世紀(少なくとも中盤以降)には、あまり勢いが感じられない。それに対して、写真を見ると、実に面白かった。ジュ・ド・ポーム(Jue de Paume)国立現代美術ギャラリーという写真専門のギャラリーがパリにあるんだけど、そこで写真の展示を見たら、20世紀絵画よりずっと面白かった。絵画は想像力でいくらでも描けるけれども、写真は何かを写さないといけないという制約があると思っていたけれども、そんなことはものともせずに写真は絵画をどんどん追い詰めているんだと思った。絵画は写真が登場したことで、写実の世界から(完全ではないにせよ)退場していき、印象派、キュビズムや抽象絵画などが流行したが、結局、それらは写真でも表現できるということが示されてしまった。(そうした作品はポンピドゥーセンターの国立現代美術館でも沢山見た。)

また、光や動きや音を出すアートは確かに面白いが、それらは電力などのエネルギーを消費し続ける。その「無駄」や「遊び」が重要だというのは確かにそうかもしれないが、ただの「無駄」や「遊び」は所詮飽きられる運命にあるし、それだけのことを言うためにわざわざ大げさなものを作る必要もない。新しい作品を次々と作っていくのも良いが、それよりも、アートは独立した「アートそのもの」であることによってではなく、ロマネスクやゴシックの彫刻のように、あるいはイスラーム世界や中国の工芸品がそうであったように、何かに付属して、それに新たな価値を付け加える「装飾」として「生きていく」方が良いのではないか?今回の旅を通してそういう思いを強くした。

そして、一部で「装飾」が見直されているという議論を聞いたことがあるが(たしか『「装飾」の美術文明史』という本だったと思う)、それもこうした現代アートの諸問題が行きついた先の一つの解決だからなのだろう、と思った。ローマの美しいボウルやランスの聖母像のように、美術は単に美のためだけにあるのでは不足なのではないか、と。



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